不器用な人間たちのためのラブストーリー
サブカル映画には共通する特徴がある。
主人公はたいてい社会に馴染めない。
うまく人を愛せない。
自分の居場所もわからない。
それでもどこか愛おしい。
そんな映画たちの中でも、90年代以降のサブカルチャーに決定的な影響を与えた一本が『バッファロー’66』だ。
公開から四半世紀以上が経った今でも、この映画は多くの映画好きや音楽好きにとって特別な存在であり続けている。
なぜ『バッファロー’66』はサブカル映画の金字塔なのだろうか。
『バッファロー’66』という奇跡
1998年に公開された『バッファロー’66』は、俳優でもある ヴィンセント・ギャロ が監督・脚本・主演を務めた作品だ。
主人公ビリー・ブラウンは刑務所を出所したばかりの青年。
両親に嘘をついていた彼は、偶然出会ったレイラを無理やり誘拐し、自分の妻のふりをさせる。
あらすじだけ聞けば異常な話に思える。
しかし映画を観ると、その異常さの奥にある孤独が見えてくる。
ビリーは乱暴で神経質だ。
他人に優しくできない。
常に怒っている。
けれどそれは彼が強いからではない。
傷つくことを恐れているからだ。
サブカルチャーは「かっこ悪さ」を愛する
ハリウッド映画の主人公は強い。
困難を乗り越える。
成長する。
誰かを救う。
しかし『バッファロー’66』のビリーは違う。
情けない。
不器用。
どうしようもない。
それでも観客は彼を嫌いになれない。
なぜなら私たちもまた、不完全だからだ。
サブカルチャーが愛してきたのは完璧なヒーローではない。
欠陥だらけの人間である。
うまく話せない人。
恋愛が苦手な人。
社会から少し浮いている人。
『バッファロー’66』はそんな人々の感情を代弁する映画だった。
レイラという存在
この映画を語るうえで欠かせないのが、レイラという女性だ。
演じるのは クリスティーナ・リッチ 。
彼女は誘拐されているにもかかわらず、不思議なほど自然体でビリーに寄り添う。
もちろん現実的に考えればあり得ない設定だ。
だがこの映画はリアリズムの物語ではない。
孤独な人間が「理解されたい」と願う幻想の物語なのだ。
レイラは恋人というよりも、ビリーが人生で初めて出会った理解者として描かれている。
だからこの映画は恋愛映画でありながら、救済の物語でもある。
青い照明と冬の街
『バッファロー’66』を観ると、まず映像の美しさに驚く。
雪の積もる街。
古びたボウリング場。
安っぽいダイナー。
どこか色褪せたアメリカの風景。
映画全体を覆う青白い空気は、まるで冬の夕方のようだ。
派手ではない。
むしろ寂しい。
しかしその寂しさこそが美しい。
サブカル映画が愛される理由の一つは、この「寂しさの美学」にある。
『バッファロー’66』はその極致と言っていい。
音楽好きが惹かれる理由
『バッファロー’66』が長年インディーロック好きに愛されているのも偶然ではない。
映画全体に流れる感覚が、まるで一枚のインディーロック作品のようだからだ。
派手な展開はない。
劇的なカタルシスも少ない。
しかし細部に感情が宿っている。
それはまるで90年代のローファイ作品や、ベッドルームポップの名盤を聴いている感覚に近い。
この映画を好きな人は、
- スロウコア
- ドリームポップ
- インディーロック
- ローファイ
といった音楽にも惹かれやすいだろう。
映画というより、一つのアルバムのような作品なのだ。
『秒速5センチメートル』にも通じる喪失感
日本映画やアニメに置き換えるなら、『秒速5センチメートル』にも近いものがある。
どちらも恋愛の成功を描いていない。
むしろ失われたものへの執着や孤独を描いている。
人は誰かに救われることで変わるのではない。
誰かと出会った記憶によって変わる。
『バッファロー’66』もまた、そのような映画である。
なぜ令和の今も愛されるのか
現代は自己肯定感が重視される時代だ。
前向きであること。
挑戦すること。
自分らしく生きること。
そんな言葉が溢れている。
しかし実際には、多くの人が自信を持てずに生きている。
『バッファロー’66』はそんな人間の弱さを隠さない。
むしろ弱さそのものを映し出す。
だからこそ、時代が変わっても色褪せないのだ。
サブカル映画の金字塔として
『バッファロー’66』はおしゃれな映画として語られることが多い。
確かにファッションも映像も魅力的だ。
だが、この映画の本当の価値はそこではない。
誰かに愛されたい。
理解されたい。
居場所がほしい。
そんな人間の根源的な願いを描いていることだ。
だからこの映画は単なるカルト映画ではない。
孤独を抱えた人々のための映画なのである。
Noise Decode的あとがき
『バッファロー’66』を初めて観たとき、多くの人はビリーのどうしようもなさに戸惑うかもしれない。
だが年齢を重ねるほどに気づく。
私たちは思っている以上にビリーに似ている。
強くなりたいのに強くなれない。
優しくしたいのに優しくできない。
誰かと繋がりたいのに、うまく近づけない。
そんな不器用さを抱えながら生きている。
だから『バッファロー’66』は今もなお、多くのサブカル好きの心に残り続けているのだ。
それはおしゃれだからではない。
弱くて、不格好で、孤独な人間を、それでも肯定してくれる映画だからである。