tricotの低音から解き放たれた、ヒロミ・ヒロヒロの「歌」の居場所
日本のオルタナティブ/マスロックシーンにおいて、tricotというバンドは極めて特異な存在だ。変拍子や複雑なアンサンブルを武器としながらも、ポップネスを失わない。その強靭なバンドサウンドを長年支えてきたのがベーシスト、ヒロミ・ヒロヒロである。
ベーシストという立場は、ときに音楽の骨格を支える裏方でもある。tricotにおいても彼女のベースは楽曲の推進力を担いながら、決して前面に出すぎることなくバンド全体を成立させてきた。しかし、ソロプロジェクトFennelで彼女が選んだ表現は、その対極にあるものだった。
2021年に発表されたデビューEP『slow down』は、tricotで培われたアンサンブル感覚を残しながらも、より「歌」に焦点を当てた作品として制作されている。海外インディーロックやシューゲイズ、エモの香りをまといながら、中心にあるのはヒロミ自身の素朴で透明な歌声だ。複雑なリズムや技巧ではなく、メロディと言葉の余白によって感情を描く。その姿勢は、ベーシストとして長年「楽曲を支える側」にいた彼女だからこそ到達できた表現なのかもしれない。
『slow down』というタイトルは象徴的だ。常に前進し続けるバンド活動のスピード感から少し距離を取り、自身の内面を見つめるための時間。その結果として生まれた6曲は、派手さではなく温度で聴き手を包み込む。
1. drunker
オープニングを飾る「drunker」は、Fennelというプロジェクトの方向性を最も分かりやすく提示する楽曲だ。
歪んだギターとオルタナティブな質感を持ちながらも、中心にあるのはあくまで歌。tricotで見せていた緊張感のあるアンサンブルとは異なり、ここでは音が呼吸する余白が意識されている。
タイトルが示す酩酊感は、単なる退廃ではなく、自分自身の感情に身を委ねるための装置として機能しているように聴こえる。Fennelの世界観への入口として理想的な一曲だ。
2. dreaming
「dreaming」はEPの中でも特に浮遊感が際立つ楽曲である。
シューゲイズやドリームポップの影響を感じさせながらも、過度に幻想的になりすぎないのはヒロミの歌声によるところが大きい。現実と夢の境界を曖昧にするようなサウンドの中で、彼女のボーカルは不思議なほど生活感を保っている。
ベースプレイヤーとして培われた「引き算」の美学がよく表れており、感情を過剰に説明しないからこそ余韻が残る。
3. サンデー
EP前半のハイライト。
「サンデー」というタイトルから想起される日常性が、そのまま楽曲の魅力になっている。特別なドラマを描くのではなく、ありふれた休日の空気を丁寧に切り取るような視点が印象的だ。
Fennelの楽曲群は総じてスケールの大きな物語よりも個人の感情に寄り添うが、この曲はその象徴と言える。穏やかなメロディラインと柔らかなコーラスが、聴き手の記憶にある日曜日を呼び起こす。
tricotの鋭利な世界観を知るリスナーほど、この肩の力の抜けた表現に驚かされるだろう。
4. スーパーガール
タイトルだけを見るとポップな楽曲を想像するが、実際には理想と現実の距離感を感じさせる繊細なナンバーだ。
誰かにとっての「スーパーガール」であろうとすること、自分自身の期待に応え続けること。そのような現代的なプレッシャーを内包しているようにも聴こえる。
サウンド面ではEPの中でも比較的ダイナミクスがあり、Fennelの持つバンド的な側面が垣間見える。メロディの強さと感情の揺らぎが絶妙なバランスで共存している。
5. Island
タイトル通り、孤独と安らぎの両方を抱えた楽曲。
島というモチーフは、外界から切り離された場所であると同時に、自分自身と向き合うための空間でもある。Fennelの音楽が持つ内省性が最も濃く表れているのがこの曲だろう。
ギターサウンドは広がりを持ちながらも決して過剰にならず、歌を包み込むように機能する。そのバランス感覚は、アンサンブルを熟知したミュージシャンならではのものだ。
アルバム終盤に配置された意味も大きく、作品全体を静かに深めている。
6. You and I
EPを締めくくるラストトラックにして、本作の核心。
『slow down』全体を通じて描かれてきた感情が、この曲で一つの輪郭を得る。親密さと距離感、不安と愛情。そのどちらか一方ではなく、両方を抱えたまま相手を見つめる視線が印象的だ。
ヒロミ・ヒロヒロのボーカリストとしての魅力が最も発揮されており、決して声量で押し切るわけではない。それでも言葉が確実に届いてくる。
EPの最後にこの曲があることで、『slow down』は単なるサイドプロジェクト作品ではなく、一人のミュージシャンが自身の言葉を探し当てる過程を記録した作品として成立している。
総評
『slow down』は、tricotのベーシストが作ったソロ作品ではある。しかし、その肩書きだけで語るにはあまりにも完成度が高い。
ここで鳴っているのは、テクニカルなバンドサウンドの延長ではなく、ヒロミ・ヒロヒロという個人の視点から紡がれた「歌」の世界だ。海外インディーロックやシューゲイズの影響を感じさせながらも、日本人ならではの繊細な感情表現へと着地させる手腕は見事である。
そして何より印象的なのは、長年バンドの土台を支えてきたベーシストが、自らの声を主役に据えたときに生まれた説得力だ。『slow down』は速度を落とすための作品ではなく、本当に大切な感情を見失わないための作品なのである。