日本のアンダーグラウンドシーンには、ジャンルでは説明できないアーティストが存在する。
NATURE DANGER GANG(以下、NDG)は、その代表格と言っていい。
2013年に東京で結成されたNDGは、パンク、ハードコア、ブレイクコア、テクノ、ヒップホップ、ノイズ、レイヴカルチャーなど、あらゆるジャンルを飲み込みながら独自の表現を築き上げてきた音楽集団である。
彼らを初めて観た人は、おそらく「何が起きているのか分からない」という感想を抱くだろう。
ステージでは複数のMCが入り乱れ、絶え間なくビートが切り替わり、観客もライブの一部として巻き込まれていく。
しかし、その混乱は決して無秩序ではない。
NDGの作品を繰り返し聴くほどに見えてくるのは、「混沌」を徹底的にデザインする美学なのである。
ジャンルを混ぜるのではなく、ジャンルという概念を壊してしまう
NDGをパンクバンドと紹介することもできる。
レイヴユニットと呼ぶこともできる。
あるいはヒップホップやベースミュージックの文脈から語ることも可能だ。
だが、そのどれも少し違う。
例えば一曲の中で、四つ打ちのダンスビートから突然ハードコアへ切り替わり、その直後にはブレイクコアのような高速ビートへ突入する。
普通であれば破綻してしまう構成が、不思議なほど自然に聴こえる。
それはジャンルを融合しているからではない。
最初から「ジャンル」という考え方を無効化しているからだ。
NDGの音楽を聴いていると、ロックなのかクラブミュージックなのかという問い自体が意味を失っていく。
重要なのは「身体が動くかどうか」。
理屈ではなく、本能へ直接届く音楽なのである。
YouTubeに残されたMVが映す”生”のエネルギー
YouTubeに公開されているMVを観ると、NDGの魅力はさらに明確になる。
代表曲「生きてる」のMVでは、ライブ映像だけでなく、移動中や楽屋、街中で過ごすメンバーの姿も数多く映し出される。
そこに映っているのは、スターのように作り込まれた姿ではない。
汗をかき、笑い、叫び、時には疲れ切った表情まで含めて、一人ひとりの「生きている時間」がそのまま作品になっている。
だから映像全体に漂う空気はドキュメンタリーに近い。
MVというより、「NDGという共同体の記録」と言った方がしっくりくる。
このリアリティこそが、彼らの音楽と強く結びついている。
MVは”演出”ではなく”現場”を映している
現在のMVは、高い映像技術やストーリー性によって完成度を競う作品が多い。
一方、NDGの映像にはそうした方向性とは異なる魅力がある。
カメラは、出来事を演出するためではなく、その場で起きている熱量を記録するために存在しているように見える。
画面の揺れや粗い質感さえも、作品の一部になっている。
観ているうちに、「ライブを鑑賞している」という感覚ではなく、「その場所に居合わせている」という錯覚が生まれる。
これはライブハウスという空間を何より大切にしてきたNDGだからこそ生まれる映像表現なのだろう。
NDGが提示した”自由”
NDGの作品を聴いていると、「自由」という言葉が何度も頭に浮かぶ。
しかし、それは好き勝手に音を鳴らすという意味ではない。
ジャンルに縛られない。
演奏スタイルにも縛られない。
ライブの形式にも縛られない。
観客と演者という境界にも縛られない。
あらゆるルールから自由になろうとする姿勢が、彼らの音楽全体を貫いている。
だからこそ、NDGは「暴れるバンド」とだけ語られるべきではない。
彼らは、音楽そのものが持つ自由さを、誰よりも身体を使って表現してきた集団なのである。
今なお色褪せない理由
2010年代、日本のアンダーグラウンドシーンには数多くの刺激的なアーティストが現れた。
その中でもNDGが今なお語り継がれている理由は、流行に寄り添わなかったからだろう。
彼らはクラブミュージックをロックへ近づけたのでも、ロックをダンスミュージックへ寄せたのでもない。
その両方を飲み込み、「NATURE DANGER GANG」という新しい言語を作り上げた。
YouTubeに残されたMVを観ても、その熱量はまったく古びていない。
むしろ、ジャンルレスな音楽が当たり前になった現在だからこそ、彼らが10年以上前に提示していた価値観の先進性に驚かされる。
NDGは混沌を演出していたわけではない。
混沌そのものを音楽へ変換し、それを祝祭として鳴らし続けてきた。
だから彼らの作品は、聴くたびに「音楽とは何か」という固定観念を壊してくれる。
NATURE DANGER GANGは、日本のアンダーグラウンドカルチャーが生んだ、最も自由な表現者の一組なのである。