はじめに:ジャンルから「文法」へと変貌したマスロック
かつて「マスロック(Math Rock)」といえば、一部の熱狂的な音楽リスナーが愛する“難解な音楽”の代名詞だった。90年代のアメリカで生まれたDon CaballeroやHella、そして2000年代の日本で独自のエモ・叙情性を加えたtoeやLITEといった先駆者たち。彼らが鳴らしていたのは、複雑な変拍子やポリリズムを駆使した、ある種のストイックな実験音楽としてのロックだった。
しかし2020年代現在、マスロックの風景は一変している。TikTokやYouTubeのショート動画で超絶技巧のタッピングが日常的に消費され、インディーシーンでは複雑な拍子を持った楽曲がごく自然に受け入れられている。
現代において、マスロックはもはや閉じられた「ジャンル」ではない。あらゆる音楽を豊かにするための「文法(手法)」へと進化したのだ。その変化の決定打となった存在がtricotであり、その遺伝子を受け継ぎながら新たな地平を切り拓く新世代のバンドたちである。
tricotという絶対的特異点:変拍子を「隠蔽」するポップネス
現代のマスロックを語る上で、tricotの功績はあまりにも大きい。彼女たちの最大の発明は、「極めて複雑な変拍子を、極上のポップミュージックとして聴かせる」という力技を成し遂げた点にある。
通常のマスロックは「5拍子」「7拍子」といった構造そのものがスリリングな快感として提示される。しかし、tricotの楽曲はどれだけ拍子が展開しようとも、リスナーの耳にはまず「キャッチーな歌メロ」と「身体を揺らせるダンスグルーヴ」が飛び込んでくる。
「変拍子を分析させるのではなく、気持ちよさの一部として体感させる」
このtricotが提示した「マスロックのポップス化」という回答こそが、その後の日本のインディーシーン、ひいては世界のポストマスロック世代のバイブルとなった。
現代マスロック/ポストマスロックの群像:5つのアプローチ
tricotが切り拓いた地平の先で、現代のバンドたちはマスロックの文法をどのように自らの血肉としているのだろうか。注目すべき5組のアーティストを解剖し、比較していく。
1. 技術の極致と精神世界の融合:JYOCHO
元「宇宙コンビニ」のだいじろー(Gt.)によるプロジェクトJYOCHOは、tricotとは対極とも言える「超絶技巧の全面提示」を行いながら、独自のポップネスを確立している。
驚異的なスピードのアコースティック・タッピングやプログレッシブな展開が目まぐるしく変化するが、フルートを取り入れた緻密なアンサンブルと、どこか祈りのような神聖さを纏うボーカルによって、難解さは「美しきファンタジー」へと昇華されている。技術をエゴではなく、独自の世界観を構築するためのアーキテクチャとして使用している例だ。
2. 歌を主役に据えた、新世代のポップアプローチ:水中スピカ
京都発の水中スピカは、まさに「tricot以降」の空気感を最もピュアに体現しているバンドの一つ。
きらびやかなツインギターによるマスロック直系のタッピングリフが炸裂するが、楽曲の主役はあくまで親しみやすく、切ないメロディラインにある。複雑な演奏は前景に出るのではなく、歌の感情を増幅させるための「背景のブースター」として完璧に機能しており、現代の若者にも違和感なく響くキャッチーさを獲得している。
3. インストが描く、緻密で不条理な美学:paranoid void
ボーカルを排した(あるいはボイスとして扱う)3ピース・インストゥルメンタルバンドparanoid voidは、マスロック本来の「構造の美」を現代アートの域まで高めている。
浮遊感のあるリフレインと、突如として牙を剥く変拍子のコンビネーションは極めてスリリング。歌に頼らないからこそ、楽器同士の緻密な会話そのものが物語性を生み出しており、マスロックが持つ緊張感と知的な快感をストレートに受け継いでいる。
4. エモ/シューゲイザーと溶け合う日常の情景:kurayamisaka
2020年代のインディーシーンで急速に支持を広げるkurayamisakaは、マスロックの文法を「90年代〜00年代の日本のギターロック・エモ」の文脈へ滑らかにスライドさせた。
一聴するとノスタルジックなシューゲイザーやオルタナティブロックだが、その輪郭を形作っているのは緻密に計算された変拍子や変則的なコードアプローチだ。彼らにとってマスロック的アプローチは、日常の淡い風景やエモーショナルな感情を切り取るための「繊細な筆遣い」として機能している。
5. ミッドウェストエモの熱量とマスロックのハイブリッド:ANORAK!
ANORAK!は、海外のMidwest Emo(ミッドウェストエモ)やAlgernon Cadwalladerなどの系譜を感じさせる、疾走感と情熱に溢れたサウンドが特徴。 細かく刻まれるタッピングリフと、感情を爆発させる叫びのようなボーカル。ここでのマスロックの文法は、知的な計算のためではなく、むしろ「溢れ出るエモーションを加速させるための起爆剤」として使われている。初期衝動的な熱量とテクニカルさが見事に同居した現代的なバランス感覚だ。
現代マスロック・アプローチ比較
各バンドがマスロックという「文法」をどのように解釈し、どの要素と掛け合わせているのかを整理した。
| バンド名 | サウンドの核 | マスロック要素の役割 | 掛け合わせているジャンル |
| tricot | ポップス / ダンス | グルーヴとフックの生成 | J-POP / オルタナティブ |
| JYOCHO | プログレッシブ / 構築美 | 精神世界・ファンタジーの具現化 | アコースティック / フォーク |
| 水中スピカ | キャッチー / 歌モノ | メロディを際立たせる装飾 | インディーポップ |
| paranoid void | インスト / 緊張感 | 楽器同士の知的でスリリングな対話 | ポストロック / 現代アート |
| kurayamisaka | ノスタルジー / 情景描写 | エモーショナルな揺らぎの表現 | シューゲイザー / 00年代インディー |
| ANORAK! | 熱量 / 疾走感 | 感情を爆発させる起爆剤 | ミッドウェストエモ / パンク |
考察:これからのマスロックが向かう場所
かつて「変拍子を叩きつけること」そのものが目的であり、ジャンルのアイデンティティだった時代は終わった。
現代のマスロック、そしてこれからのマスロックにおいて重要なのは、「複雑な構造を、いかにして人間の自然な感情やポップネスへと還元するか」である。
tricotが「難解さをポップスで包み込む」という扉を開けたことで、後に続く新世代たちは、より自由な手札としてマスロックの文法を使いこなしている。JYOCHOのように芸術性を極める方向もあれば、水中スピカやkurayamisaka、ANORAK!のように、ポップス、シューゲイザー、エモといった別ジャンルの感情表現と混ぜ合わせる方向もある。
「私はマスロックバンドをやっている」ではなく、「表現したい感情のために、この変拍子が必要だった」
アーティストたちがそう口にするような時代。境界線を失い、あらゆるインディーロックの血肉となった時こそ、マスロックという手法が最も美しく、そして新しく鳴り響く瞬間なのかもしれない。