映画館で『しんしんしん』を観終えたあと、真っ先に思い出したのは映画のことではなかった。
はっぴいえんどの「しんしんしん」。
そして京都・左京区にある深夜喫茶しんしんしんだった。
振り返ってみると、この映画は一本の線の上に存在している。
はっぴいえんどの一曲から始まり、京都の深夜喫茶へと受け継がれ、そして映画になった。
その線をたどっていくと、『しんしんしん』という作品が描いている本当のテーマが見えてくる。
それは「居場所」だ。
雪が降り積もるように孤独を描いた歌
はっぴいえんどの「しんしんしん」は、派手な曲ではない。
大きな物語もない。
誰かと誰かが出会うわけでもなく、劇的な別れが描かれるわけでもない。
ただ雪が降る。
しんしんと雪が降り続ける。
松本隆の歌詞は、都市に降る雪の風景を描きながら、その奥にある孤独や寂しさを映し出している。
雪はすべてを覆い隠す。
街の騒音も、人々の営みも、一度静かに包み込んでしまう。
だからこの曲を聴いていると、自分だけが世界から少し離れた場所に立っているような感覚になる。
何かを主張するわけではない。
何かを解決するわけでもない。
ただそこに居る。
「しんしんしん」という曲が半世紀以上経った今も人を惹きつける理由は、その感覚にあるのではないだろうか。
京都にあるもうひとつの「しんしんしん」
京都・左京区には深夜喫茶しんしんしんという店がある。
深夜になると灯りがともり、音楽や本や会話が静かに流れる不思議な空間だ。
店名の由来はもちろん、はっぴいえんどの「しんしんしん」。
さらに店主の話によると、はっぴいえんどのメンバーが実際に訪れたこともあるという。
その話を初めて聞いたとき、妙に納得した。
なぜなら、この店には曲と同じ空気が流れているからだ。
何か特別なイベントがあるわけではない。
誰かと仲良くならなければならないわけでもない。
ただそこに居られる。
深夜喫茶しんしんしんは、居場所という言葉を説明せずに体現しているような場所だった。
思えば、好きな喫茶店やライブハウスというのはそういうものかもしれない。
コーヒーの味だけではない。
音楽だけでもない。
そこに流れていた時間ごと愛している。
だから人は何度も同じ場所へ帰ってくる。
映画『しんしんしん』が描いたもの
そんなことを考えながら映画『しんしんしん』を観ると、この作品が単なるロードムービーではないことに気づく。
映画に登場する人々は、社会の中心から少し外れた場所で暮らしている。
血の繋がらない人たち。
仮の家族。
仮の共同体。
しかし、その居場所は永遠ではない。
住処は失われ、人々は旅に出る。
彼らが探しているのは新しい家ではない。
安心して帰れる場所だ。
それは映画の中だけの話ではない。
現代を生きる私たちもまた、どこかで同じものを探している。
SNSでつながっていても孤独を感じる。
転職や引っ越しを繰り返す。
学生時代の友人とも疎遠になる。
自由になった代わりに、居場所は不安定になった。
だから『しんしんしん』に登場する人々の漂流は、どこか他人事に思えない。
居場所は建物ではなく記憶なのかもしれない
映画を観ていて感じたのは、人は場所そのものを愛しているわけではないということだった。
好きだったライブハウス。
学生時代によく通った喫茶店。
深夜まで話した公園。
思い出すのは建物ではない。
そこで過ごした時間だ。
だから居場所を失うというのは、場所を失うことではなく、時間を失うことに近い。
映画の登場人物たちもそうだ。
彼らが失ったのは屋根のある家ではない。
共に過ごした日々だった。
京都の深夜喫茶しんしんしんも同じだろう。
人が通い続けるのはコーヒーだけのためではない。
そこで過ごした夜があるからだ。
「しんしんしん」は居場所の名前なのかもしれない
はっぴいえんどの一曲から始まった「しんしんしん」という名前。
それはやがて喫茶店になり、映画になった。
どちらにも共通しているのは、誰かのための居場所であることだ。
曲を聴いて救われた人がいる。
喫茶店で夜を過ごした人がいる。
映画を観て帰り道を考えた人がいる。
居場所とは、自分の存在を肯定してくれる場所なのかもしれない。
それは家とは限らない。
喫茶店かもしれない。
映画館かもしれない。
あるいは一曲の音楽かもしれない。
『しんしんしん』という映画が令和に観るべき作品である理由はそこにある。
この映画は答えをくれない。
人生の問題も解決してくれない。
それでも観終わったあと、自分が帰りたい場所について考えたくなる。
そして、その帰る場所がどこなのかを思い出させてくれる。
はっぴいえんどの歌から始まった「しんしんしん」は、半世紀以上の時を経てもなお、人々の居場所として静かに鳴り続けている。